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関東小話<3> 

【幸せの匂い】


店の中は普段煌々とした灯りがついていない所為か、幾分薄暗いように見えた。
だが、幼いころから家にいなかった母親の代わりに買い物に出ていた佐伯にとって、それはそんなに奇異な光景でもない。
そういえば子供のころはこんなものだった。
何時からだろうか、こんなに店の中が明るくなったのは。
主婦たちが限定の商品に群がっているが、あの中に入るのは腰が引ける。
第一、男の二人暮らし。しかも、輪番停電とやらでほとんど仕事にならず、残業など論外とあっては、支度に手間がかかろうがどうでもいい。
インスタントは手軽に出来ていいが、それも忙しければ。という注釈つきだ。
素直にいくつかの解凍肉と野菜を買う。コストと輸送の関係だろう、最近生肉が売ってない。まぁ、ひと手間掛ければ味が変わるわけでもないし、そんな繊細な舌を持っているわけでも無い。主食が無いのはご愛嬌だ。
成長期の過ぎた身で、肉体労働をしているわけでもない。飯が無くてもなんとかなる。
それでもまったくないのは味気がないだろうと、一応パスタだけは籠に放り込んだ。
この辺りでは一番大きなスーパーだ。
普段であれば、商品が溢れているはずの棚にはところどころ空いている。それでも買えないものは僅かだ。米とパン、おにぎり、弁当。インスタント食品。
単一の乾電池と、ペットボトルの水。トイレットペーパーも品薄のようだが、男の二人暮らしなら、12個入りがあれば二ヶ月は余裕だ。今買う必要が無い。
単一の乾電池なんで、いまどき何に使うというのか。
佐伯は身の回りのものはすべて単三が使えるものを買っているし、キーホルダー型のものはLEDライトだ。それは一緒に暮らしている久世も同じで、別段、不自由は無かった。
唯一、買えなくて困ったと思ったのは、牛乳くらいだ。
朝のトーストには牛乳をつけたい。と考えて、ハタと思い直した。トースト用のパンが買えなかったのだから、牛乳も無駄だ。
自分の回らない頭に苦笑いを浮かべて、佐伯はスーパーを後にした。


「ただいま」
商店街の真ん中の路地を入った場所にある家に戻ると、テーブルの上に食パンが置かれていた。
「久世。これ何処で買ったんだ?」
おかえりを聞く前に、思わず尋ねていた。同棲中の恋人である久世は、童顔気味の顔に困惑の色を浮かべている。
「いや、貰った」
「貰った? この物資不足の昨今に?」
地震から一週間も経ってない。ガソリンが足りないから、当然配送のトラックが無い。
コンビニだって、スーパーだって夕方になると、店の棚が空き始める。特に主食に関しては、被災地に回されていて、最初から無い店さえあるくらいだ。
「二つ先の角にパン屋があるんだよ。そこの前を通ったら…」
久世も佐伯も、あまり美食な方ではない。まぁ、美味いにこしたことは無いが、不味いからといって、それを捨てたりはしない。我慢すれば食べられる程度であれば、それを食べる。
そういう男たちにとって、商店街のパン屋は近くて遠い存在だ。
サンドイッチやカレーパンくらいなら買うが、スーパーの1.5倍の値段の食パンはわざわざ買ってまで食べるものでは無かった。

だから、酒屋の帰りにその店の前を通りがかったのは、本当に偶然だ。
パン屋のオヤジは、同じ商店街に住むものとして顔は知っている。気の弱そうな自分と同年代の男だ。
高校生の頃から、ここで一人暮らしをしていた久世には馴染みのある顔ではあった。
それが珍しく人のごったがえした店から、困惑しきった表情で助けを求める視線を外に投げかける。
その視線と目が合った。
久世としては、普段どちらかと云えば閑散とした雰囲気のある店に、大勢の人がいるのが珍しくて、つい視線を送っただけだ。
だが、目が合った以上、そこに込められたSOSを無視出来るようなタイプでも無かった。
仕方なく店へと入り、親しげな振りで声を掛ける。
「珍しいな。この店がこんなに混んでるの」
ごった返した店内の殺気立った視線がいっせいにこちらを向いた。
「く、久世くん」
何故かパン屋の親父が親しげに名前を呼んだ。まぁ、同じ町内会だから回覧板ででも名前を見たのかもしれない。
困惑の原因はすぐに判った。
パン屋だから、棚に並べられているのは窯に入っていたままの長い一本のパンだ。それを三本抱え込んだ女がレジの前で頑張っていた。
「ご近所にも配るんだから! 絶対にこれだけは無いと困るのよ!」
嘘付けと久世は思った。これが化粧っ気の無い歩きつかれたようなタイプなら、あたり一帯を回っても無かったんだろうなと思ったかもしれない。実際、会社近くのコンビニで昼飯を済まそうとするとパンとおにぎりは無いことが多いからだ。
だが、明らかに女はそういうタイプでは無かった。店の中にいる疲れたおばさん連中と同年代だろうが、小綺麗な格好と磨かれた靴をみても普段こういう店では買い物をしそうにない女だ。
久世は女の手から、ひょいとパンを取り上げた。
「一人一本までだ。おばさん」
「あの、皆に売りたいんで、お願いします」
ギロリと睨んだ久世と、気の弱そうな店主の声に、女は渋々と従った。
店の殺気立った空気が和らぐ。おそらく、あの女が三本買ったなら、我も我もと皆が押し寄せて来ただろう。
「何よ、こんなにあるのに! ケチ!」
女は金を払うと、ヒールの音も高らかに出て行った。
「さあさあ、みんな一人一本までだ。並んだ並んだ」
レジの前から列を作らせる。山積にされたパンは一時間もせずに無くなった。

「それで、礼にこれか?」
「まぁな。いらねーっつったんだが」
実際、たいしたことをした訳でも無い。列の整理を手伝っただけだ。
それに自分の分ならともかく、食べ盛りの子供でもいるのなら、殺気立つ主婦たちの気分は判る。
しかし、それに対抗できる男は皆無だろう。
久世はあの情けないパン屋の親父の顔を思い出して、クスリと笑いを誘われた。
「でも、パンが手に入ったなら、やっぱり牛乳欲しいな」
「牛乳? あるぜ?」
「え??」
佐伯は目を丸くした。一体何処で手に入ったのだろうか?
「ほら」
冷蔵庫のドアポケットには、確かに大き目のビンに入った牛乳がある。しかも、そのビンには何処と無く見覚えがあった。
「これ、麦茶用の奴じゃねーか」
「角の八百屋で、ビン回収なら売るって云われたからさ」
「あーあ、匂い移っちまうだろう」
「どーせ、しばらく手に入らないんだろうから、専用にしちまえばいいさ」
「確かに」
八百屋で売っているのは、どこぞの酪農家直営の500mlの瓶入り牛乳だ。回収なら売ると云われても、常にそんなものを持ち歩いている訳でも無いだろう。
かといって、返しに来る手間は掛けたくないのが人情だ。
「買占めに走れないようなタイプの店だと、結構手に入ったりするんだよな。気持ちは判らんでも無いが」
モノはある。だが、地震後の何も無かった店を見せられた身には、あると云われても信じられないのかもしれない。
「幼稚園の頃に、トイレットペーパー買うのに並ばされたの思い出すな」
「お一人様、一個までか」
顔を見合わせて笑う。日常はこんなものだ。

佐伯は台所に立って、フライパンを焼いた。思いがけず、豪華な食卓になりそうだ。
肉の焼ける匂いを背に、久世はラジオを付ける。
凄惨な現場ばかりが映し出されるTV画像は、精神的なトラウマを未だ抱えたままの久世にはキツかった。
それでも、余震がいつ起こるかわからない現状では、ニュースを頼るしかない。
悲惨な現地の様子。
何も出来ない自分が悔しい。だが、何も出来ないからこそ、ここで頑張るしかない。
普通に穏やかに、そうやって生きていく。
肉の焼ける匂いと、台所に立つ恋人の背中。
大切な大切な日常のひととき。
久世は、そのひとときをゆっくりと噛み締めて味わった。
後悔しないように。


<おわり>

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